異常な部活動に喝!

一流ということ

先日コメントをいただいた方から

「「一流とはどういうことなのか」を部活を通して指導されていて・・・」

というお話がありました。
そのことでひとつ心に引っかかったことがありますので、書いておきたいと思います。

一つのことを徹底的にやって、その道で一流になるということはとても意味のあることだと思います。ただ、「一流」の意味を深く考えないといけません。
石原都知事のように 「日本人は一流で、それ以外のアジア人種は二流三流 = つまり”三国人”」というとても歪んだナショナリズムに陥る危険性も常に心に留めておきたいと考えます。

なにを持って一流かそうでないかーーなんて勝手に他人に判断されたくはないですよ。

私の子供は吹奏楽では決して一流のプレーヤーではない。
でも生徒会の仕事をし、部活も休まず続けながら、いじめで不登校になった子を三年間支え続けました。
ほとんどの子たちは見て見ぬふりをしていました。自分の身の回りで起きている出来事に対して無関心を決め込み、「自分は自分の道を究める」なんて言って何かで「一流」となったとして、それがどれほどの価値があるのでしょうか?

プロを目指しているならまだ言い訳も立つでしょう。でもそこは学校なのです。学校の中で起きていることに対しての無関心を教師が率先して勧めてしまうようなことは私には許せません。

「いいよ、あんなヤツほっとけよ! オマエは自分のやるべきことをやれ!!」

なんて平気で言う教師がいます。「次の大会まで日は浅い。今は他人のことなんて気にするな」と言うのです。

そんな中で育った生徒が、将来どうして「一流」のことを成すことができるでしょうか?

教師の口にする「一流」なんてあまり信じない方がいいと思っています。

今日、中学校のときに不登校になってしまった子に偶然逢いました。一時の暗い影は全くなく、元気いっぱい高校へ通っているそうです。
とても可愛らしいお嬢さんになっていて、目もキラキラ輝いていました。一時は教師も信用できず、私の息子以外誰も信じられないと言っていた子の素敵な笑顔を今日見て、私自身も救われた思いがします。

何が「一流」なのか、まずは教師たちに深く考えてもらいたいと思います。

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コメント先: "一流ということ" (2)

  1. 元保護者より の発言:

    先日は、ご返答いただきましてありがとうございました。

    utchie様のお考えも、よくわかりました。

    そして今回、私のコメントさせていただいたことへ新たにお書きくださって
    いるのを拝見し、誤解されているようなので、たびたびご迷惑かとは思いましたが、
    書かせていただきますね。

    決して、吹奏楽の一流になれとは申し上げておりません。
    何事でも認められるには、どれだけの努力が必要であるのか、それを教えているのです。

    将来、学校を卒業し一人立ちするには、自分で働き、そして生活できるだけのお金を
    得なければなりません。

    そのときに、どんな仕事でも一生懸命取り組み、一流を目指す姿勢が大切であると
    指導されているのです。自分の仕事に責任を持つこと、それが結果的に自分が生きていくうえで、とても重要であるということです。

    学校生活では、先生に背こうが、休もうが親がかばってくれるので何の問題も
    ないでしょう。しかし、社会に出るとそうはいきません。この仕事はやりたいけど、
    これはやりたくないなどと言っていたらとても、お金を得られるようなプロには
    なれませんよね。

    音楽のプロになりたければ、プロの道を目指すべきとお書きになっていますが、
    実際問題、そうなると、裕福な家庭のお子さんしかプロにはなれません。

    お子様が吹奏楽をやっておられるそうなので、もちろん楽器が高価なものであると
    ご存知かと思います。そしてレッスン料もプロに受けるとなると、相当な金額です。
    我が子も中学時代受けておりましたが、1時間5千円でした。公立高校の授業料が
    月1万円弱だったことを考えると、高校の部活動は、音楽のプロを目指す子供の夢
    をつなぐ場とはならないでしょうか?

    プロを目指しているなら言い訳も・・・とありますが、まずどんなときでも
    言い訳は認めません。
    「おまえたちはプロじゃない。感謝の気持ちを忘れるな」
    と常に話されております。
    「学校に無関心」というのも、この学校に関しては考えられません。
    他校の有名な学校でそうだったんですか?
    それでしたら、理解できますが・・・

    「放射線と放射能の違い」恥ずかしながら、私はある程度はわかっておりましたが、
    もし説明せよと言われたら、言葉に窮したでしょう。さっそく調べて、確認いたしました。

    このような常識を、部活をやらない生徒が全員知っているのか?疑問です。

    中学校の部活廃止論も一理あると思いますが、慎重に考えるべきだと思います。
    有能な指導者も、初めから有能であったわけでなく、それを考えると本当に
    ただ権力を振りかざすおばか教師なのか、いろいろと学んではいるけれど、まだ
    芽の出ない教師なのか、その辺を見極めることも大切だと思います。

    > 「意識を同じくする」ことなど不可能です。一部生徒が加熱してしまいその気持ちを他者に押し付けることがしばしば発生しています。他者にとってはいい迷惑なのです。

    逆もありますよね。やる気のなさを他者に押し付けることも発生している。
    吹奏楽に関しては、合奏である限りおのおのパートを任されると思いますが、
    何かと休まれると演奏が成り立たなくなる。そうなると、休んでいない子達の
    練習が無駄になるわけです。それは迷惑とはならないのでしょうか?

    ヨーロッパの形式が良いように書かれていますが、そうとは限りません。
    福祉が充実し自由に思える国ほど、犯罪率が高かったり家族崩壊がおきています。
    そんな国は犯罪率の低い日本を見習おうと研究していて、極端な話ですが
    制服を取り入れたりしているそうです。

    何もかも自由になることが、子供たちの幸せではなく、ある程度の規則や不自由
    の中で学ぶことで、治安が守られ、家族や友人など多くの絆が生まれていくのだと
    思います。中学校では、その規制のひとつが部活動ではないですか。

    指導の下手な先生もいるでしょう。でも、それはそれで何かを学べるのです。
    どういうやり方がダメなのか、では、どうすればいいのか。
    先生や生徒同士、やる気のある、無いでもめるでしょう。それもまた、学びです。

    今年度から、「脱ゆとり教育」が始まりました。
    一度路線から外してしまったものを、元のレールに乗せるのは大変です。
    部活廃止の是非も徹底的に論議されるといいですね。

    (平井憲夫さんの文章、読ませていただきました。とても10分では読みきれない
    深いお話でした。教えてくださり、ありがとうございました)

  2. >何事でも認められるには、どれだけの努力が必要であるのか

    実はほとんどのことに関して、「努力は報われない」のが現実です。音楽に関しては特に顕著です。
    私の姉は一時プロとして作曲活動をしていました。
    落合恵子さんにナレーションを入れていただき、レコード(当時はまだCDはありませんでした)を出した経験もあります。姉の音楽的才能はどれほどだったかは良く分かりません。なにしろ「現代邦楽」という特殊な分野でしたし。
    でも例えば・・・
    10本の指でピアノの鍵盤をめちゃくちゃにたたいたとします。姉はその音すべてを言い当てることができました。数十小節に及ぶ音を一度聴いただけで間違いなく楽譜に書き取ることができました。
    でもプロとしては極当たり前の能力です。そんなことができる人間は日本にはゴマンといるのです。でもある程度の年齢を過ぎたら、血のにじむ努力をしてもその力は絶対に身に付きません。できる人は何の苦もなくできてしまいます。これが現実です。

    昨日(日曜日)に某高校の吹奏楽班定期演奏会を聴きにいってきました。昨年に続いて エリック・ミヤシロ さんをゲストに迎えての演奏会でした。
    エリックさんは
    「おしゃぶりの代わりにトランペットのマウス・ピースをしゃぶり、気がついたらプロになっていた」そうです。練習はした経験がないとも言っていました。
    つまり「さあ、練習するぞ!」という感じでの練習というのはやったことがない とのことでした。
    これがプロです。

    小学校〜中学校〜そして高校へと常に優秀な成績の子供たちを何人も見てきました。
    彼らのほとんどは「ガリ勉」ではありません。塾通いなどしたこともないような子供たちがほとんどなのです。普通の子供たちに比べたら圧倒的に机に向かって勉強する時間は少ない子も多いです。
    「それはもともと頭がいいんですよ」
    と言うひとがいますが、違います。
    エリックさん同様 「さあ、勉強するぞ」 なんて構えて勉強をしていないのです。子供の頃から常に好奇心をもち、すぐに調べたり深く考えることが習慣になっているだけなのです。
    勉強は遊びに近いものなのです。だから普通の高校生がいくら頑張っても彼らにはなかなか追いつけません。
    これが現実です。

    疑問なのはなぜ 「他者から認められる」ことにそれほどこだわるのでしょうか?
    認められなくたっていいと思うのですが。
    人それぞれです。みんな違ってそれでいいじゃないですか。
    企業にとって都合の良い人間形成など、まったく子供たちのためにはなっていません。ただ競争心をあおり、差別と選別の社会を維持するのに手を貸しているだけです。

    自分のことを少し話します。
    私は中学校のときはサッカーに熱中していました。クラブで一番得点を多くあげました。クラブ長もしました。
    試合に勝つことを部の目標としたことはありません。部活にあまり出てこないひと、サッカーがあまりうまくないひと、いろいろいましたが、私は全員を試合に出しました。勝つことが目的であってはならないと考えていたからです。学校の部活とはそういうものだと認識していました。いろいろ問題はあっても一年間の部活の発表の場所が大会の試合なのですから、全員をその発表会に出したかったのです。
    私はサッカーを通じて学んだことは、「ひとそれぞれでいい。勝敗なんて重要なことではない」ということくらい。サッカーである程度有名になったって、その経験が将来の仕事に結びついたことなんてほとんど何もないと思っています。
    サッカーが好きだからやっていた。−−−それだけで十分では?

    でも仕事では頑張りすぎてしまいました。
    電子回路設計からソフト開発まで手がけ、学会に論文も出したし自分が開発した製品が「Gマーク」をもらったこともあります。
    でも8年前癌を宣告されて体調も優れない状況が続いたら、企業はゴミを捨てるように私を切りました。
    「なんでこんなことができなんんだ!」って怒られながらものんびりと仕事していたような人が「生き残って」います。
    これが現実です。仕事で一流になるということと、人の幸せとはなんの関係もありません。一流なんかでなくてもいい。幸せな人生であって欲しい。息子にはそう願うばかりです。

    吹奏楽の話の戻しますが、音楽の才能が無い子にまで多くを期待したり要求することは実に酷だと思っています。
    ある病院長の証言です。
    「心療科を受診する中学生の9割は、吹奏楽部の子どもたちです。」
    これを異常だと感じないとしたら、その心こそ異常でしょう。
    前にも書きましたが、中学校くらいから音楽を始めても、出来る子との力の差を埋めることはほぼ不可能なのです。
    「やればできる!」なんて無責任に言う人もいますが、それは嘘です。
    だから無理して頑張る必要なんてないんです。楽しければそれでいいじゃないですか。出来ない子が出来る子に合わせることは元々不可能なこと。だから出来る子が出来ない子に合わせるのが当然なのです。しつこいようですがプロではないのですから。

    中学校の同級生で甲子園に二年連続出場して、テレビでもちょっと有名になった男がいます。
    彼が引退したあと会うことがありました。
    彼曰く
    「やっと人間になれた」
    「じゃ、今まではなんだったんだ?」と訊くと
    「今までは奴隷だった」と言いました。
    一年365日一日も休みがなかったそうです。
    高校球児として活躍した彼はその後そのアドバンテージを活かせたでしょうか?
    「何も無い!」というのが彼の本心です。

    制服について一言。
    制服の自由化は私が高校一年生のときに全県的に行われました。
    現在県内で制服のある公立高校はほとんどありません。
    もう40年も続いています。生徒会で時間をかけて議論して私たちが決めました。
    理由は次の三点:
    1.高校入学時に経済的負担が増える
    2.毎日同じ服を着ることになり不潔。
    3.詰襟の学生服は軍服を連想させるものであり、平和教育を受ける私たちにとって抵抗がある。

    今の高校生たちは自分たちの有り様について議論する力がなくなっています。

    最後に
    ひろ さちや さんの主張を紹介します。
    「仏教に学ぶ「がんばらない」思想』という本があります。
    ニジマスは激流の中で生きるものと淀みで生きるものがいるそうです。激流はえさが多く沢山食べることができるのですが、エネルギー消費が大きいため淀みで生きるニジマスにくらべて体が大きいということはないそうです。
    ーーーということを前置きとしてこう続けます。
    「われわれのやった失敗は、
    ———淀みに生きる生き方———
    を全面否定したことです。淀みにいては駄目なんだ。そんなやつは人間の屑だ。落ちこぼれだ。楽帆者だ。覇気がない。無気力だ。生きている値打ちがない。マスコミや評論家がそんなふうに宣伝したのです。評論家やマスコミは、財界の幇間(たいこもち)ですよ。彼らは財界のために、そういう発言をしたのです。」

    またこうも述べています。

    「でもね。どうして苦しさに負けてはいけないのですか? 五、六人の仲間で日曜日、近くの山に登りました。しかし、体調をこわしている者がいて、八合目に来て、「もう駄目だ。下りたい」と言います。すると皆で、「もう少しだ。がんばれ! がんばれ!」と言うでしょう。けれども、体調を崩している者にとって、がんばることはとてもつらいことなんですよ。「それなら、皆で下りよう」と、どうしていえないのですか!?
    ———(中略)———
    この場合も、がんばってはいけないのです。」

    「がんばろう、日本」のかけ声が日本中に響いています。
    でもこれ以上がんばりようがない被災者たちをどれほど苦しめることばなのか、なぜ分からないのでしょうかね・・・・・。

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