異常な部活動に喝!

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部活のやり過ぎは子供たちの可能性を狭める

今日も猛暑。

今年初めてプールに行って泳ぎました。以前なら息子と一緒に出かけたものです。でも息子は吹奏楽の練習のため今日も学校。。。ま、もう高校生なので私も少しずつ 「子離れ」 しないといけないのでしょうけどなんとなく寂しさはあります。

泳いでいてふと思いました。
息子は小学校の頃、クロールができました。ところが中学校でいつの間にかクロールで泳げなくなり、平泳ぎばかりになってしまったのです。学校の体育の授業だけではなくて、親と一緒にプールに来るようなことが時々あったなら、水泳だってちゃんとできたはず。
中学校の吹奏楽の部活で彼はひとつ能力を削られてしまったのです。

足も速かった。
中三で100m 12秒台で走っていたのです。指導者について少し練習すれば、陸上競技大会への出場だって可能だったかもしれないのです。でも吹部の練習ばかりやらされていたため、その能力も捨てるはめになりました。

中学生くらいの時にこどもは大きく伸びます。
その時期に多くのことを学ばせないで、一つのことばかりに集中させることは子供たちにとって有害無益!

ひとつのことに集中することで、子供は伸びるのだと思い込んでいる大人たちがとても多いことにショックを受けます。子供の可能性を狭め、能力の芽を摘み取っているかもしれないことに気づいて欲しいと思います。

部活でやっていること以外の分野で、とんでもなく素晴らしい才能を発揮できるかもしれないのに、大人たちが非常に近視眼的になりかつ視野が狭くなることによって 子供の能力をスポイルしてしまう危険性はとても大きいのです。

息子は明日も吹奏楽の練習。
ちょっと異常じゃないかな、いくら高校生といっても。
でももうこの件に関してはこどもに判断を任せています。親としては部活のために成績が落ちることには決して肝要ではないことは伝えてあります。
仮に成績が平均以下に落ちたら、事実上部活は続けられません。なぜなら部費を親が払わないからです。

吹奏楽のために今の高校へ入れたのではありません。
親もけじめをつけないといけませんよね。

とにかく中学生は部活をやりすぎてはいけません。幅広い教養と知性を養うためには、少なくとも週末くらいは家族との関係を大事にし、様々な学習を行うべきです。学校や自宅を離れての学習の場なんて、いくらでもあるのですから。

「感謝」の大安売り

最近気になっている現象に

「感謝の心を忘れない」
というフレーズが至る所で聞かれることです。まさに 「大感謝セール」。。。
特に吹奏楽などの演奏会で、最後の挨拶では必ずと言っていいほどこの言葉が聞かれます。

「結構なことじゃない!」
・・・かもしれません。

でも「まてよ」という気もします。

ひねた見方なのかもしれませんが、教師が生徒に対して「感謝の心・・云々」を口にするとき、その本心は「俺に感謝しろ」と言っているように聞こえるのです。あるいは社交辞令として身につけておけ!と言っているのかも。。。

そもそも感謝の気持ちなんて誰かに言われて感じるものではないでしょう。
でも無理矢理 言わされているように感じられてなりません。
———そういうことを言うのが社交辞令。社会人になるためのこれも訓練だよ ———
そんな気配が感じられてならないのです。

そう考える背景にはこんな例が多々あるからです。

「私たちは一人で生きているのではありません。お父さんが仕事でお金を家にもってきてくれます。お母さんが毎日ごはんを作ってくれます。家の電気は電力会社の人たちが毎日電気を作ってくれているからです。学校へ行けるのは政治家の皆さんや役所の皆さんの努力の結果です。」

だからすべての人に感謝しましょう・・・と言うのです。
間違いだとは思いませんが「修身」みたいで気持ち悪い。
私たちはより安全で平和で自由な社会に暮らしたいと願っています。そのためにはその障害となるものに対しては屹然たる態度が必要なときもあるはずです。

無責任で嘘だらけの政治家や、 放射能をまき散らす電力会社、社会の底辺に生きるひとを無視する役所。
これらに対しては怒りの声を上げてしかるべきなのです。感謝だけでは 社会は良くなりません。

でももし生徒たちが政治的、社会的発言をしたらどうでしょう。
恐らく教師たちは公共の場でのそういった発言はやめさせるように圧力をかけるだろうと想像します。
どこでもそうだと言うつもりはありませんが、生徒の自由な発言はなかなか聞かれません。

「公共の場での発言は、誰の気持ちも害することをしてはいけない。だから政治的、宗教的、社会的発言は慎むべし」
それが社会人になるための基本的マナーです・・・というような教育が至る所でなされているように感じられてならないのです。

この教育のおかげかどうか、日本人は公の場で自分の意見をハッキリ言いません。それを「日本人の奥ゆかしさ」という人がいますが、私は違うと思います。
これはかなり政治的な配慮だと感じます。政府や役所など権力の側にいる人に対しての批判をさせない「指導」が文科省から教育の現場まで染み渡っているからではないでしょうか。その意味では日本の教育は戦前とあまり変わらないようにも思えます。

彼らの「お世辞」スピーチを聞いていると、まるで北朝鮮にいるような気分になってきます。

だいたい「お父さん、お母さん、私たちは感謝しています」って言われて嬉しいですか?
私はとても気持ち悪い。親が子供のために最大限のことをするのは当たり前のこと。学校に行かせ趣味を持たせたくらいで感謝なんてして欲しくない。それとも子供に感謝されて感激する親もいるのでしょうか・・・?

感謝の押し売り や 社交辞令の強要 はやめてもらいたいと思っています。

「怒れ! 子供たちよ!」

個性を奪う教育

我が家で採れたカラー・ピーマンです。

collor pepper

家で野菜などを育てていると、様々な個性のあるものが採れます。
上のピーマンを見てどう感じますか?

ある人は「美しい」と言うし、ある人は「気持ち悪い」と言います。

食べてみれば味は他のものと変わりません。おいしいです。
でもこんなピーマンはスーパーなどでは商品とならないでしょう。

スーパーでは



大きさ

などに関してある基準が設けられていて、それを外れたものは商品となりません。
資本主義社会において私たち一人一人も商品です。労働力という商品です。
今の学校教育において、子供たちは「売れる」商品になるための訓練を受けることになります。

ですからいくら「個性を伸ばす」とか「個性尊重」なんて言ってもそれは絵に描いた餅。
産業界からそんな要求なんて出てはきません。産業界の子分みたいな資本主義国家の政府は、産業界の意向で動いているようなものなので、「個性を伸ばす教育」なんて本気でやる気なんてありません。

だから相変わらず教育現場において、個性の強い子供ははじかれます。

もちろん教師の質にも影響を受けることは間違いありません。
個性を尊重する教師のもとでは、子供は活き活きと勉学に取り組むことができるかもしれません。

でも今の日本社会全体が個性を認めない状況にある中では、子供たちも周りと合わせる道を選んでしまいがちです。

「規格外」の商品は売り物にならないことを、子供たちは早くから感じ取っているはずです。

まずはスーパーの野菜売り場から変えないといけないですね。

いろんな形、大きさ、色の野菜があっていい。それを選ぶのは客です。流通業者やスーパーの経営者に決めてもらいたくなんてありません。

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